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レンズの詩学

アート批評、思想、雑感など

サッカーと戦争論、ケガレ

今年も来たよ、高校サッカーの季節。

 

しかも常勝を誇る我が母校、滝川二高も2年ぶりの出場。さっそく今日、初戦となる秋田商業戦をテレビ観戦したんだわ。いやぁ、今年もいいチームつくってきたなー。6年前に全国制覇へ導いた栫監督が一昨年に辞任して、大丈夫?って思ってたんだけど。流石だね。見事な初戦突破。もともと組織への帰属意識が薄い俺でも、毎年母校が勝ち上がると嬉しくなっちまうもんなんだよ。

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そんで、その後に東海大仰星によるトータルフットボールvs超攻撃サッカーっていう絵に描いたような構図の試合を観て、やっぱし高校サッカーはおもしれえなって思った。

 

Jリーグは観ねえし、日本代表戦にもさしたる興味がない俺が、なんで高校サッカーが好きなのか。いやさ、サッカー自体は好きなんだよ。べつに非国民つーわけでもないしね。むしろ日本人としての矜持を大切に生きてるし。でもさ、プロスポーツにおける日本のサッカーには確固としたスタイルや思想がないから面白くないんだよ、正直さ。

 

ここをよくよく深掘りしてくと今の日本サッカーの課題が浮き彫りになってくると思うのね。そこから日本のサッカーをおもしろくする俺なりの提言、もとい暴言を吐いてみようと思う。だから、ちょっと熱く語ってみよう。

 

「サッカーは数学とアートの融合である」ってのはFIFAインストラクターとして活躍してる小野剛さんて人の本に書いてあったことなんだけどさ。サッカーが11人から成る団体競技である以上、個の力以上にある程度の組織的な思惑や知性が介在する余地のあるスポーツであるわけ。

 

その組織論的な理屈と選手個々の力量が見事なバランスで発現される場としてのサッカーは、俺にとって未だ魅力的であって。思考実験的に知的好奇心が刺激される娯楽である理由なんだけどさ。今の日本のサッカーを取り巻く環境を見たときに、プロチームには思想やスタイル、戦略ってのが欠如してることが面白くない要因として挙げられるわけ。

 

逆に言うと高校サッカーにはそれがあるからこそ面白いのだし、根強いファン層に支えられてると思うのね。

 

なんで高校サッカーにはチームとしての思想や戦略があるかっていったらさ。まず教育機関としての方針や校風、歴史ってのがあって。それに基づいた監督の抜擢があって、体現者としての監督個々のキャラクターがあるわけ。それで監督の考え方に基づいた選手が集められて初めてサッカー部というチームが成り立つわけなんだけどさ。

 

ここまでの流れとしての一貫性が強いチームを生み出して、強豪校の「伝統」が出来上がってるっていう図式。

 

実はこれ、戦略論の基本なんだわ。たとえばアメリカの歴史学者エドワード・ルトワックが唱えてる戦略の諸相として技術(Technical Level)、戦術(Tactical Level)、作戦(Operational Level)、戦域戦略(Theater Strategy)、大戦略(Grand Strategy)の5つにレベル分けをしている。下位概念から並べてるけど。

 

これを我が母校の滝川二高、略して滝二に当てはめて考えてみる。まず歴史というところで見ると兵庫県下有数の進学校である私立・滝川高校から「文武両道」(→ビジョン)をモットーに分化して創立されたのが滝川二高で、通常の進学コースの他に推薦枠を活用してスポーツエリートを育成するための専門コースを設けている(→大戦略)。サッカー部においては学校創立とともに地元のクラブチームである神戸FCで指導者として活動していた黒田和生氏を監督に抜擢。で、この黒田監督のもと両サイドを活かした速攻型のコンパクトで機動的な「縦に速いサッカー」(→作戦)を志向し、その影響は今も色濃く残している。当時はかなり前衛的な取り組みもしてた。実際、俺が入学することになる1994年度の選手権大会には高校サッカーでは珍しかった3トップ(→戦術)を採用してたし、集められた選手も小柄でスピードがある技巧派が多かった(→技術)。

 

そこから後を継いだ栫監督は、伝統を引き継ぎながらも泥臭く粘り強いフィジカルサッカーを展開して全国制覇を成し遂げたんだわ。当時のダブルブルドーザーと名付けられた破壊力のある2トップを見ても、随分とガタイのいい選手を起用したもんだとド肝抜かされたのを覚えてる。

 

こーゆー歴史や色合いを強豪といわれる高校は少なからず持ってるわけ。要は自校の考え方やポリシーに基づいて戦略上の「技術」である選手を選択していることになる。

 

翻って。Jリーグの各クラブチームや日本サッカー協会のマネジメントはどうか。日本代表はどうか。はたして理想的なチーム、リーグ運営がなされているか。否。むしろ絶望的。今のサッカー界を取り巻く情況を一言いってしまえば、まさに「戦略の不在」というほかないよな。逆に現存する選手から逆算して、出来るサッカーを考えるみたいな。

 

選手という名の「手段」から目指すべき「目的」を発想するのでなく、明確な「目的」から「手段」を発想せよ。そうすることなしに今の日本が抱える制約条件を超越したサッカーは展開できないと思うんだよ。

 

そんな情況をつくりだしてる元凶の日本サッカー協会にも戦略思考が垣間見えた瞬間てのが、かつてあったんだよな。日本代表におけるアギーレの監督就任がそれ。体格やフィジカルに劣る日本代表が世界で勝負するために、メキシコの「個々が持つテクニックを活かすべく攻守にわたる組織的なプレー」をベンチマークし、同国の有力指導者を招聘したという事実に俺でさえ期待するものは少なくなかった。ところが例のスキャンダルによる解任劇からの日本サッカー協会の迷走ぶり、そこからの代替の監督人選に疑問を感ぜずにはいられなかった。

 

マネジメントが紆余曲折する中で本田や香川、長友なんていう選手が神格化されてさ。そこを軸にチームを語る世論に後押しされ監督自身も選手を基点に戦術を発想するなんて悪循環に陥ってるわけだから。今の日本に本当に必要なのは強烈なリーダーシップを発揮する監督のキャラクター性なわけ。

 

自身の考えるサッカーにそぐわない選手はドラスティックに切り捨てるくらいのことしないと、 そりゃ何大会も共にしてきて強固な連携が出来上がってるからさ。切り捨てにくいんだけど。創造には破壊がともなうのは当たり前の話で。どっかのタイミングで必ずしなくちゃいけないことなんだよ、ほんとさ。

 

まとめると、まずは日本や各クラブチームが追求すべきスタイル、世界観を示すべき。そこから派生して監督や選手をチョイスしていく。明確な指針がないと、指導者も選手も育たんぜよ。

 

戦術戦術って、流行りの戦術論に終始してたところで何も改善されない。滝二での例示に見たように、戦術っていうのはわりとどうにでもなるレベルでしかないんだわ。さっきルトワックの戦略の5諸相に触れたけど、それぞれの要素は上位概念に従属するわけ。つまり、戦術は作戦に、作戦は戦略に従属し規定されるってこと。

 

沈む日本サッカーへの提言①

 マネジメントは戦略を掲げよ

 

欧米の政治・ビジネスエリートたちがリーダーシップを語るときに世界標準で参照する古典的名著に『戦争論』っていうのがある。ナポレオン戦争でフランス軍を撃退したプロイセンの将校、クラウゼウィッツが戦争という事象を科学的に解明した大著で「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」っていうテーゼはあまりにも有名。

 

この本の中に戦争を支配する3つの要素として「戦争の三位一体」っていうのが出てくるんだわ。なんでサッカーの話の中でいきなり戦争論なんだって思った、あんた。まー、もちょっと我慢して付き合ってよ!サッカーの試合もひとつの戦争の形態だって考えりゃ納得いくでしょ?で、この三位一体ってのは「国民」、「軍隊」、「国家」なわけ。そーすると、これにサッカーという文脈の中にそれぞれ代入するとだな。「サポーター」、「チーム」、「マネジメント」になる。

 

マネジメントについては提言①でもう言及したから、次はチーム論になるんだけどさ。日本代表を強化する上で語らなくちゃなんねえのがJリーグだがや。名古屋人じゃねえけど。「だがや」つって。言ってみたかたっただけっていう。どうでもいいことだけど。それは置いといてだな。

 

国内リーグが次代を担う有力選手を養殖する生け簀にもなってないという現状を考えると、一番の難どころだわな。

 

でさ。国内リーグを俯瞰すると、当然のことなんだけど圧倒的に「スターの不在」が挙げられる。こんだけ俺がボロカスいってる日本サッカーなんだけど、アマの世界、とくに18歳以下の世界では実は世界水準で見ても良い選手の育成に成功してる。意外かもしれないけど。

 

じゃ、なんでそれらの選手がプロに上がると途端に輝きを失うのか。それはJリーグに緊張感がないからだと思うんだよ。早い話がさ。サッカーの世界にもグローバリゼーションが持ち込まれて。リーガエスパニョーラプレミアリーグブンデスリーガなんかは実質的な外国人枠を撤廃してるってのにさ(欧州はEU圏内の選手なら実質何人でも使える)。

 

いまだ外国人枠3人を堅持してるもんだから、ある程度の才能のある選手は難なく試合に出場できて最低限の年俸は確保できてしまう。少なくとも8人はスタメンとして出場できることが確定してんだから、圧倒的に競争倍率が低い上にリーグ優勝したところで社会的には大した話題にもならないから、どんなダイヤの原石でもハングリー精神と闘争心が自然と削がれていくわけ。井の中の蛙状態で。

 

さらには毎年毎年変わらない顔ぶれで狭い国でリーグやってるもんだから刺激がない。世界的な一流プレーの片鱗でさえ目にする機会がない。まさに鎖国状態だよな。

 

で、チームもチームで。スターがいないならなけなしの外国人枠を使ってポスト・スター選手を買ってくりゃいいんだけど、商業的に厳しいもんだからなかなか大きな契約金を支払えない。そりゃそうだよ、話題性、スター性のある選手を引っ張ってこれてないんだからさ。

 

話題性がないがゆえに地元レペゼンなサッカー好きしか試合を観る動機なんて生まれないわけで。結果。契約金安くて、そこそこ戦力になりそうな差し障りのない若手か中堅選手の獲得でおさまってしまう。日本でもそれなりの人口がいる欧州サッカーファンなんてさ、目をつけた贔屓の逸材やスター選手がどこのクラブに行くんだろう、移籍金いくら積むんだろうかって移籍マーケットも楽しみのひとつになってるってのにさ。

 

そんな世界の移籍マーケットでも蚊帳の外っていう。じゃ、そんな絶望的なJリーグはこの状況をどう打開すべきなんだろか。

 

沈む日本サッカーへの提言②
Jリーグは外国人枠を撤廃すべし

 

もう、こうなっては仕方がない。EUに倣いアジア圏内の選手については外国人枠を撤廃して、東南アジア市場に門戸を開放しよう!さすれば出場枠を脅かされる日本人選手にも危機感が生まれるし、新たに流入したアジア圏の選手の中からポスト・スター選手が生まれるだろ。

 

ポスト・スター選手がビッグクラブと契約すれば移籍金で自ずとクラブの収支も上向く。そうやって経営体力をつけたのち、中東リーグのクラブのように最盛期を終えたかつての名選手を破格の条件でJリーグに連れてくるんだ。そう、発足当初のJリーグのように。

 

実は提言①で指摘したスタイルや思想さえも当時のJリーグにはあったんだ。南米スタイルのポゼッションサッカーを追求していたヴェルディ、ヨーロッパ型の堅守速攻を体現していたマリノス、土着の王国・静岡サッカーを独自に昇華したエスパルスなど。わかりやすい構図や思想がそれぞれのクラブにあり、それに基づいて往年の名選手を連れてきてた。ジーコリトバルスキー、ピクシーの愛称で親しまれたストイコビッチマッサーロラウドルップなど。

 

情報資産としても価値がある、こういった選手たちがスター不在のJリーグに華を添えてくれるしインターネットの普及でより目の肥えた欧州サッカーファンをも再びファン層に取り込めるに違いない。いいことづくめじゃないか!

 

ほんで、最後がサポーター論。サポーターってのはオーディエンスなわけで。結局はメディアが形成するもんだからさ。メディアの腐敗を正さなくては…なんて大それたこと、いうつもりはない。

 

ただ情報の流通を司るという倫理上、解説者や編集者のリテラシーは高める努力をしないと日本サッカー界の底上げは出来ない。要はリアリズムに立脚した客観性は担保しなくちゃダメだっつーこと。

 

具体的に例示すると日本のサッカー中継の場合、解説者のタイプが二分する。サポーターやチームに同調して感情的に物事を判断して、何の打開策も示さない根性論タイプ。松木安太郎が最たる例。メディアも単に「熱い」「煽り方がいい」っていう理由だけでショービズ的に視聴率を高められるって安易に考えてるのが実情じゃないかと思うんだけど。このタイプはもう害悪でしかない。

 

対照的に一定の視点の中で物事を冷静に分析し、ときに監督や選手のプレーを批判することも厭わない評論家タイプ。もちろん、この後者こそメディアは珍重すべきでセルジオ越後を筆頭に、最近は三浦淳宏も一定の距離感を保つ良い解説者として頭角を現しているように思う。

 

事実に真っ向から向き合うことなく単線的にド根性に帰納してしまう低脳な松木安太郎に対して、建設的な解決策を明示することでオーディエンスのリテラシーをも高めることができる評論家タイプの解説者は同時に教育者でもあるんだよ。

 

サッカー先進国っていわれる国のサポーターを見てると、しょうもない試合をしたり、選手が凡ミスしたりすると遠慮なく自チームであっても平気でブーイング浴びせたりするんだよね。やっぱり厳しい環境の中でこそ素晴らしいチーム、選手が生まれるもんでさ。

 

なんでも精神論に回収してしまう国民性を鑑みてもさ。サポーター自身に課題解決のための糸口を与えて、考えさせてさ。建設的な批評眼を養うことって可能だと思うんだ。だからこそメディアは松木みたいな熱血単細胞なんか早々に葬り去って、セルジオ越後をメイン解説者に据えろって話。

 

沈む日本サッカーへの提言③
メディアは害悪を排除し、大衆を啓蒙せよ

 

日本サッカーよ。除夜の鐘の音とともにケガレを払い、自らの威信を再起せられたし。

 

 

戦争論〈上〉 (中公文庫)

戦争論〈上〉 (中公文庫)

 
戦争論〈下〉 (中公文庫―BIBLIO20世紀)

戦争論〈下〉 (中公文庫―BIBLIO20世紀)

 

 

 

生き方としてのクリエイティビティ

クリエイティブな生き方ってのが存在する。

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2016年現在もいまだ現役のはずなんだけどさ、2005年に日本人として初めてのNHL契約選手となった福藤豊っていうアスリートがいる。NHLはカナダと米国にまたがる世界最高峰のプロアイスホッケー組織で、MLBNBANFLとともに北米4大プロスポーツの一角を占める人気スポーツなんだけど。体格的に劣る日本人にはどだい不利な競技でさ、日本国内ではメジャーとは言い難い。

そんな日本でもアイスホッケー選手の二大産地っていうのがあってさ。北海道の苫小牧と釧路なんだけど。福藤はそんな釧路の生まれで中学校時代にはすでに強豪校でゴールキーパーとしての頭角を現してたんだ。日本アイスホッケー界を背負う期待の新星ってわけ。普通ならそのまま推薦で高校も強豪校を選択するのがスポーツエリートっつうもんだけど、このとき福藤はアイスホッケーではマイナーな東北の高校に進学する。理由が実にクリエイティブなんだ。自分はゴールキーパーだから、強豪校の優秀な選手の強烈なシュートをたくさん受けたかったっていうんだよね。この発想がすごくないか?でさ、本人の目論見どおり強豪チームのシュートを多く浴びて鍛えられ、高校生としては史上初のアイスホッケー日本代表になって、後々NHLでの日本人初プレーヤーとして出場まで果たしてるっていうからすげえよな。
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俺自身もさ、我を押しとおすあまり何かと周囲から誤解されたり変人扱いされる性質でね。自分自身の欲望に忠実で、自らのスタイルを崩さず、自分の信じる道を突き進むっていう生き方してる人を見るとさ、ちょっとした憧憬と一縷の嬉しさを感じずにいられねえっていう。どっかで妬みみたいなもんもあるんだけど、でも単純にすげえなって感覚に耽溺しちゃうんだわ。で、そーゆー人の行動をよくよく見ると狭義でのクリエイティブさ(スペックとしての)以上に、人生を自ら創り出してるっていう戦略的なクリエイティビティを強く感じるの。

身近なとこでも過去に会ったことある人でそーゆーの感じたことがあって。とあるコンサル会社に粗利1億円以上稼ぐって看板コンサルタントがいてさ。ビジネス書なんかも何冊か出してたりする業界じゃちょっとした有名人でね。昔のご縁の社長をとおして何度か会ったりしてんだけど、一般的なコンサルタントって職種の人とはイメージがかなりかけ離れてて。第三者的に見るとホントに「ぶっきらぼう」としか言いようのない印象を与えるような人で。この人、ちゃんとコミュニケーション取れるの?ってくらい近寄りがたい雰囲気醸しててさ、あきらかにその存在が異質なの。会話してみても雑談とか殆どなくて。すげー目的合理的なピンポイントな回答しか返ってこないっていう。今でいうコミュ障とおりこして、興味ないことは徹底して興味ない人なんだなって思わされた。

よくよく考えると純国産のコンサル会社ってさ、クライアントの売上を上げることが至上命題なわけで。クライアントの経営課題を円滑に解決するための折衝力や新規クライアントを獲得する営業上でのコミュニケーション力が必要なのは確かなんだけど、この人はその部分を戦略的に自ら削ぎ落として、エネルギーのすべてを課題解決のための発想っていうところに集中投下してるんだろうなってことに気づかされた。そこしか興味がなくって見てないんだろうなって。

 

本来であればコンサルタントとして独立を考えてもいいくらいの顧客基盤とブランドが出来上がってるにも関わらず、この人はそれを潔しとせず今も企業の中核を担ってらっしゃる。中堅企業でしかなかった自社を東証一部上場まで押し上げ、今や取締役として会社の明日を担う事業開発に取り組んでいるようで、一体どんなビッグなことを考えてるのか気になって俺自身も今後の動向を注視してたりする。

 

結局のところクリエイティビティってのは、アウトプットとして可視化できるような実体なんかじゃなくって。自らの信念に従って、いかに物事・事象をデザインするかって、その人のスタイルであり発想のなかに宿ってるってこと。そこんところを今の広告業界をはじめ、アート界隈、一般社会は履き違えてるんじゃないかって思うわけ。

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単純な話、自分が戦える土俵を自ら創り出すってのがほんとのクリエイティビティであって、既存のルールの中でどうこう言ってるようじゃ話にならない。自分が突き抜けるためにルール自体を自分自身のコードに書き換える、それが詰まるところのクリエイティビティで、クリエイティブってのは実は「戦略」なんだって話。

かぎりなき仄暗さの臨界 -映画『神々のたそがれ』-

「すべてが初めて見る画面という、異形の映画。ストーリーはゆったりと進むものの、画面上に写っている情報量は半端ない。絶え間なく隅々まで、あらゆることがひたすら同時に起こり、3時間、みっちり埋め尽くすカオス。」と、映画系女子こと真魚八重子も激賞するロシア映画『神々のたそがれ』。言い得て妙なり。さすがはプロ、女史の見事な語彙力に純粋に感服した。

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もともとタルコフスキーパラジャーノフあたりの旧ソ連圏の映画が好きだった俺が、ウンベルト・エーコを始めとする各界識者が「21世紀映画の最高傑作」と絶賛しまくってるんで気にならなかったわけがない。

 

舞台は地球より800年ほど進化が遅いルネサンス初期のような惑星。都アルカナルでは知識人狩りが行われ、蛮行が横行していた。地球から派遣されたドン・ルマータと名乗る男は、アルカナルに潜入し……とストーリー上、一応はSFの体裁をとっているものの、プロットを説明する描写はほとんど皆無で、ストーリーを真っ向から追おうとすると事前に誰かの批評を読むなどの予備知識が必要。劇場公開時のパンフレットを事前に読んでた俺でさえ辟易させられた。

 

全編に未来的な描写は一切なく、いつの時代の映画なのかと錯覚してしまうほど。美女なんか一切出てこねえし、霧の立ち込めるジメジメとしたデルタ地帯を背景に、登場するのはほとんどがフリークス(畸形者)という、なんともグロくて男臭い映画なんだけど要所で映し出される詩的で美しい情景にはついつい引き込まれる。

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で、評論家たちが騒ぐほど何か革新的な映画なのかというとそうではなく、抽象的で脈絡のない会話を中心に進んでくのは古典的なクラシック映画の手法を踏襲してるとして(タランティーノあたりをイメージしてもらえるとよくわかると思う)、やたらとゴテゴテした装飾が施されてるあたりロシア構成主義の影響も見てとれる。むしろ栄光の時代へのオマージュとも言える。

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なかでも俺が面白いと思ったのは撮影技法。映画にしては、やたらと被写界深度が浅く、極度に焦点を固定化してデフォルメした映像。アレ・ブレ・ボケなんか気にして撮っちゃいないと思わせといて、実はかなり計算されてるのが窺いしれる。

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ドキュメンタリーっぽい視点の距離感は河瀬直美の作品と共通するところがあるかな。主人公を記録するように距離を置いて彼を見つめているかと思うと、不意に作中の登場人物たちから見つめ返されたりする…これは一体誰の視点を通した映像なんだと終始、違和感と混乱を孕んだままに物語は幕を閉じる。そのなんとも言えぬモヤモヤを抱えたまま、突如として終わりを告げられる雪辱感たるや…

 

何よりゴシック調の独特な様式美とグロテスクな描写で描かれた暗黒系の世界観が緻密に計算され徹底された画作りと相まって、画面構成にとてつもない鬼迫を感じる。この映画、なんと構想に35年、撮影だけで6年、編集に約5年もかかったという奇才・故アレクセイ・ゲルマン監督の遺作。

 

そして肝心の感想は、初見じゃよく解らんというのが正直なところ。でも何か妙に惹きつけられる強烈な魅力があったりして。テーマとしては自らに課せられた宿命に抗い、現実の野蛮世界へ積極的に介入してく1人の文明人を描いた形而上的な話なんだけど。人間性の本質的な描写は、さながらダンテ『神曲』の地獄編だな。キリスト教的な宗教観へのテーゼを打ち立ててるのはなんとなく理解はできる。それがロシア映画の敬虔なまでのひとつの特徴でもあってさ。

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本当にいい映画ってのは繰り返し観ないと解らないもんだからさ。ここらへんの俺自身の意味への抗いは、あんたが観てみて解釈してほしい。

 

画面の情報量がハンパない分、色彩は全編モノクロという潔の良さ。ほとんど人物の顔のクローズアップで構成された画面はウィリアム・クラインの写真なんかを思わせてカッコいいからさ、ストリートスナップの写真家とか映像作家はめちゃくちゃ刺激受ける映画だと思うよ。

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漫画キングダムを支配する大戦略

先日、録りためていた地上波のテレビ番組を整理していたら情熱大陸が漫画家・原泰久だったので見てしまった。

 

基本的に漫画はほぼ読まないんだけど、NHKでのアニメ版を見たことから『キングダム』にすっかりハマってしまい、以来ずっと読み続けている。もともと群雄割拠の乱世を描いた群像劇というプロット自体が好きってこともあるんだけど、この漫画のすごいところはなんせスケールがでかいってことに尽きる。

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漫画『キングダム』を未読の方のために、概要だけWikiから引用。

『キングダム』は、原泰久による日本の漫画。『週刊ヤングジャンプ』(集英社)にて、2006年9号より連載中。第17回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞作。

中国の春秋戦国時代を舞台に、大将軍を目指す少年・信と後の始皇帝となる秦国の王・政の活躍を中心に、戦乱の世を描く。

単行本の累計発行部数2000万部以上(1〜39巻累計)。

 

そもそもが日本みたいに小さな島国じゃ中国の国土とは比較になるわけもなく、内戦というより七王国それぞれが覇権を賭けた本気の総力戦てところに浪漫を感じるし、その広大な大陸にキラ星のごとく散らばる英傑の多さときたら、そりゃもうやみつきになること必至なんだよ。そんな数多の登場人物たちがそれぞれに策略、権謀術数のかぎりを尽くして己の思惑を描く壮大な歴史絵巻。加えてキャラの人物描写がまたそれぞれに魅力的なんだわ。

 

そんな中でもとりわけ俺が気に入ってるのが秦の桓騎という将軍。元野党の親玉でありながら軍の高官に登り詰め、残虐非道ながらに奇想天外な計略を以って確実に目的を達成してしまう稀代の戦術家。

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目的のためなら手段を選ばず、天真爛漫に我が道を生きる人ってのにいつも憧れを抱いちまう。そんな桓騎を一途に思う俺にとって最近、気になるキャラがもう一人出てきてしまった。それは、

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そう、秦軍の総司令である昌平君。なんでかっていうのは以下の画像とコメントのとおり。

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中華統一の絵図を頭に描くって、一体どうゆう頭脳してんだ…

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敵国を討ち滅ぼすのに秦の国力が耐えられる年数15年て、一体どうやって算出したんだ?

 

てか、明確にこの時点で政が七王国統一のビジョンを持ってたんだとすると、ある程度の成り行きの余地があったと思われるアレクサンドロスやナポレオンといった歴代の偉人や征服者よりすげーんじゃないか?だって当初の攻略目標は1国であったとしても、残り5国が存在するわけだから何手先もの変数を読まなくちゃいけないわけで。でも明確な大戦略がなけりゃ、あんな短期間で七王国を統一するなんて芸当はできなかったはずで…。それを政、つまり始皇帝ただ一人が画策して実行したとも考えにくい。だとすると、史実においても誰か絵図を描いた側近が存在するのではないだろうか。

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いつの世も知力が武力に勝る。もし史実においても秦による中華統一の立役者が昌平君なら、この人が古今東西の中で最も明晰な頭脳の持ち主なんじゃないかって、がぜん興味が湧き出した。

 

そういえば原泰久も番組の中で言ってたけど、始皇帝がどうやって統一王朝を建国したのかって知識がそもそも欠落してたなってことに気づいた。世界史の授業でもサラッと秦の始皇帝が中国統一を成し遂げたって習っただけだしな。

 

気になり出したら止まらない性分だから色々調べてみたけど、昌平君に関しての記述なんてホントに僅かで、始皇帝に関する文献てのも司馬遷史記』を除いたらほぼ皆無。伝承としてさえ、おそらくほとんど残ってないんじゃなかろうか。今巷に溢れてる始皇帝関係の物語、たとえばジェット・リー主演の『HERO』や『始皇帝暗殺』などの映画作品、キングダムも例外なく創作であるわけだ。当の史記も起こったことを淡々と記録しただけの簡素な記述で、実際に何が行われていたかなんてことは知る由もない。

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よくよく考えてみりゃそりゃそうで、なんせ紀元前200年ぐらいの人だからキリスト誕生以前のこと。伝記なんて文化があるはずもなく、比較的よく知られている三国志演義にしたって紀元200年ごろの話なんだから。

 

つまり、史実は闇の中ってことだな。

 

それにしたって誰がいったい秦による統一の絵図を描いたのか気になる。歴史に思いを馳せるって、こーゆーことなんだな。てか始皇帝その人自身が、並居る世紀の偉人たちをも超越した至高の存在といえるだけの偉業を成し遂げたってことだわ。きっとバイタリティに溢れて、凄まじく人心掌握術に長けた人だったんだろな。キングダムの今後の展開に、ますます目が離せないんだよな…

 

 

 

芸術は現実を模倣する

古典芸能とジャズになぜか魅かれてしまう。以下は数年前に京都・平安神宮での薪能を観に行きたくて、仲間内で観劇ツアーを企画したのだけれど、思いのほか人数が集まってしまったため急遽用意した小冊子で、能楽鑑賞の手引きになっている。で、冒頭の一文のアンサーとなる結論がこの長文の中にある。要は、能とジャズ…どちらも再現性がないが故に刹那的で、かぎりなく現実に近しい虚構であるからなんだけど、その辺りはご興味があればぜひ以下を読んでみてほしい。

能を楽しむにはどうしたらいいか。答えはズバリ『慣れ』。鑑賞するのに素養というほどのものではないけど、『慣れ』が必要なんです。でも、その『慣れ』の前にとりあえず観てみないワケには始まらんのです。まずは観ることから始める。これが能を楽しむための最初の一歩です。

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<能と狂言の違い>
能・狂言の総称のことを能楽といいます。能を一言で答えるとすれば、能は音楽・舞踊・演劇が融合された歌舞劇であり、そして仮面劇であるということがいえます。対する狂言はセリフを主体とする喜劇で、原則的には素面劇です。能と狂言は、もともとは猿楽と呼ばれる芸事から枝分かれした兄弟のような関係にありますが、狂言は人間が普遍的に持っている愚かで愛すべき本質を笑いをもって提示するのに対し、能はもっと深い日本人の精神性を七五調(七音・五音の順番で繰り返す形式。五七調とは対照的に優しく優雅な感じを与えることを特徴とする。主に古今和歌集に使われている。)を基本とする詩でできたセリフで、謡(うたい)という声楽によってすべて表現する形式なのです。

 

<能の魅力>
能は理屈の世界ではなく身体で感じ、ありのままを受け止めるものです。初めて鑑賞される方は寝てしまわれることがほとんどですが、それもまた一興でしょう。頭で理解するのではなくて、まずは身体で雰囲気を感じていただければ幸いです。

 

能楽は現存する最古の演劇といわれています。約650年という悠久の時を経て、なぜ能が語り継がれてきたのか。それは「能は日本人の心の原点」だからではないでしょうか。生命へのやさしいまなざし。それこそが、観阿弥世阿弥によって到達した能の世界です。

 

もともと能は、神を招き、神にみていただく素朴な舞いが、その源流となっています。能の根本は「供養」です。能が描くのはその社会で最も弱い人間です。殺された者、病んでいる者、深く傷つけられた者、周縁に排除された者たちを選択的に描いています。弱く醜く、人々から忌避されるような者が、強者に追われてついに非業の死を遂げるという話がとても多いですけれど、それは彼らを供養するためなんです。基本的に成功譚は能にはないです。ほぼ例外なく、能の視点は死者、病者の側です。能は、鎮魂の芸能であると同時に、生命の讃歌なのです。

 

舞台にはまず主役である「シテ」がいます。能においてシテというのは、要するに「する人」という意味で、能という芸能を「する」のは、ただこのシテ一人に集約されています。シテ方には、観世、宝生、金春、金剛、喜多の五流があります。そしてシテと語りあいをしながら、時には舞台の進行役となる「ワキ」がいます。さらに笛、小鼓、大鼓、時には太鼓も加わるオーケストラとしての囃子方、総勢8名で構成されるコーラスとしての地謡がいます。さらに実は舞台上にはもう2人、「後見」と呼ばれる者が舞台向かって左奥に控えています。その舞台で行われることのすべてに責任を持ち、その一曲を無事終わらせることを任務とし、総監督を勤めるのが、この後見なのです。

 

そのほかに、シテが連れて出てくる「ツレ」やら、ワキが連れて出る「ワキツレ」、狂言回しとしての「アイ(間狂言)」などが全体として能楽を形成するのです。

 

演劇というカテゴリーの中で、能にもっとも特色的なことは「演出家がいない」ということ。何をテーマに、どんな言葉で「物語る」かということも、 それをどのように「謡う」かということも、また舞台の上でどんな型で「舞う」かということも、すべて能役者の双肩にかかっているのです。

 

いかなる能も本番前にただ一回「申し合わせ」という名のリハーサルをするだけ。世界中にこれほど形而上的で、これほど濃密な、そしてこれほど完成された演劇がほかにあるでしょうか。思えばおそるべき芸能を、私たちの国は生み出したものです。それは幾多の芸能の本質が、既に決定された物事を繰り返しうるという虚像に過ぎないのに対し、能楽だけはその公演をただ一度きりのものと限定し、そこに込められる精神は現実の行動に限りなく近しいとされているからなのです。 

 

現在上演されている能の曲目を「現行曲」といい、だいたい200曲前後です。そのうち実際に鑑賞することができるのは実質100曲程度。これらの曲の多くは、いわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる二部構成になっています。これは世阿弥が考案したスタイルです。この「複式夢幻能」は、最も能らしい能といえ、その性格をよく示すものです。

 

<能の構成>
まず「諸国一見の旅の僧」が登場します。これは全国の名所・旧跡を訪ね歩いている僧で、ワキ方が演じます。一日を旅に費やし夕暮れ近くにある土地に到着、その土地にまつわる物語などを思い起こしていると、いわくありげな人が通りかかります。そして、僧に向かって問わず語りにその土地の由来や物語などを語り、自分こそがそこに描かれた当の主人公であると明かして消えていきます。ここまでが前段で、シテはいったん舞台から姿を消して、「中入り」となります。旅の僧が弔いつつ、疲れて眠りに落ちると、先の人が生前の姿で現れます。過去のいきさつを語り、舞を舞い、僧侶の供養を頼みながら消えていきます。ワキの僧はそこで目を覚まし、今見たものは夢であり、自分はひとりそこに残されていることに気付くというところで、一曲が終わります。舞台が前後半に分かれ、夢の世界が展開されることから「複式夢幻能」という名前が付きました。

 

<能面の意味>
能では若干の例外を除いて、神仏・鬼神・亡霊・精・天人など、異界からの来訪者に面をかけることが一般的です。人間国宝である故・観世静夫によれば「能の役者というのは、常に冥暗の世界と現世との中間にただよう霊魂のようなものだから、何か思いなり訴えなりを、安心して託し、託すことによって、ある呪術力を持たせて貰えると信ずることのできる相手がなくてはならない。それが能面なのだ。」−能面は単なる扮装の道具にとどまらず、能役者に一種の「変身」のパワーを与える呪物であるというわけです。また観世静夫はこうも言っています。「観客に対するときの表玄関であるオモテ(能面のこと)、その能面のウラの暗闇の中に能役者は姿を隠している」のだと。能面の眼の穴は非常に小さく、面をかけると極端に視野が狭められます。しかも、能面はちょっとでも顔を動かすと「表情」を作ってしまうので、方向を定めるのも容易なことではありません。まさに面をかけた能役者の体は闇のなかで、絶体絶命の状態に宙吊りにされているのです。能の代名詞ともいえる能面。オモテの内側は異界、すくなくとも異界への入り口であり通路で、そこに入ることで能役者は異界の者になります。能面のウラの闇には異界の者と能役者の激しい鬩ぎ合い(せめぎあい)があり、それがほんらい無表情の表面に表情を超えた微妙な変化を与えます。各演目のなかでオモテがどんな表情を見せるのか、能の大きな見どころのひとつでもあります。

 

能舞台について>
舞台は省略の上に省略を重ねたきわめて簡潔なものとなっています。具象的なものを徹底して捨て去ることで、能は、舞台上に純粋な情念の世界を表出することを可能にしました。観る者は、どのような具象的な物にも邪魔されることなく、そこに表現されている情念そのものを受け止めることができるのです。省略し、余白をつくること、その余白に物語らせること、これは日本の絵画において用いられる技法であり、一輪の花にすべての花の美しさを託した茶道の精神も、同じ美意識の発露といえます。表現し尽くさず、何も描かれていない余白を作者と鑑賞者が想像力の限りを尽くして完成させる、それが日本の美の精神であり、能がマイナスの芸術と言われる由縁です。

 

実は能の発生の頃には舞台は野外が基本的でした。現在見られるような能楽堂の形式は明治以降、もとは有力な演者の屋内の稽古舞台であったものが次第に一般的な演能にも使用されるようになったのです。

 

能舞台を初めて見る人は視界を遮る邪魔者の「柱」の存在を苛立たしく思うかもしれません。しかし、本舞台を支える四本の柱こそが能舞台の空間構造=空間の力学を性格づけている最も重要な要素なのです。シテ柱・目付柱・ワキ柱・笛柱という四本の柱によって空間の<垂直>方向の力線が生まれます。この垂直方向の力線は能役者の身体の垂直性(歩行から個々の型に至るまで基本的には垂直方向の軸線から外れることがない能役者の「立つこと」の充実)を補強する役目を果たします。動きが極限まで洗練され、様式化された能の演技のなかでは、ただ立っていること、ある場所にいること、ある方向へ向かっていくことなどがそれだけですぐれて雄弁な表現となりうるわけですが、柱は<位置>や<方向>を際立たせる平面の座標軸ともなり、「立つ」「居る」「止まる」「通過する」あるいは「向かっていく」といった身体の運動はそれぞれ性格の異なる4つの定点としての柱を基準とすることで空間に定位され、劇空間のなかで意味を持ち、生きた表現となります。能役者は常に、四本の柱を枠として縦横に引かれた見えない力の網目のなかで(視覚上の平坦さとはうらはらに四本の柱の生み出す異なる磁場が起伏をおりなす舞台の上で)劇空間における自らの位置を決め、空間を身体化していくのです。

 

橋掛リも能においては決定的に重要な装置で、長さと角度はそれぞれの舞台で異なりますが、特に登退場の演出で効果的に使われる演技空間です。ここでも<位置>と<空間>は重要で、橋掛リのどこにどう立つかでシテの心理の綾や本舞台との関係が描き出されます。

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演目の概要

演目① 高砂 〜名曲に匿された意味〜
世阿弥
前シテ・・・老人
前ツレ・・・姥(うば)
後シテ・・・住吉明神
ワキ・・・阿蘇の宮の神主
ワキツレ・・・同行の神職
アイ・・・高砂の浦人

【あらすじ】
九州阿蘇神社の神主友成(ともなり)が京都へ上る途中、播磨国高砂の浦に立ち寄ると、松の木陰を掃き清めている老人夫婦に出会います。高砂の松とはどの木か、ま、高砂・住吉の松が遠く国を隔てて生えているにもかかわらず「相生の松」と呼ばれるのはなぜかと尋ねる友成に、老人は、今自分が掃き清めているこの木がその高砂の松だと答え、自分は津の国住吉の者、姥は播州高砂の者だと語ります。老人夫婦が遠く離れた場所に住んでいることを不審に思う友成に、老人は、住吉と高砂の松ですら「相生」という名を持つのであるから、まして自分たち夫婦の住む場所がどれほど遠く離れていようとも、妹背の仲に変わりはないのだと教えます。高砂の松・住吉の松はそれぞれ『万葉集』と『古今集』になぞらえられていること、松の葉はすなわち和歌の言の葉で、天下泰平の象徴に他ならないことなどを語った老人は、なおも松にまつわるさまざまな故事を物語ります。やがて老人は、自分たちこそが高砂・住吉の相生の松の精であると正体を明かし、友成一行を住吉で待っていると言い残し、小舟で沖へ漕ぎ出してゆきました。

高砂に住む浦人から高砂と住吉の松が相生といわれる子細を聞いた友成は、浦人が新しく造った船を借りて住吉へと向かいます。すると、約束通りに住吉明神が姿を現して和歌を詠じ、春の景色を賞(め)で、舞楽の秘曲を尽くして舞を舞い、泰平の御代を祝福するのでした。

 

演目② 松風 〜永遠の恋を描いた人気曲〜
観阿弥改作
シテ・・・海女(松風の霊)
ツレ・・・海女(村雨の霊)
ワキ・・・旅僧
アイ・・・須磨の浦人

【あらすじ】
旅の僧が須磨の浦で曰くありげな松を見付け、かつて須磨に流された在原行平(ありはらのゆきひら)が愛した松風・村雨という姉妹にゆかりの松だと浦人から聞かされます。月の美しい秋の夜。汐汲車を曳き、月夜に興じながら汐汲みから塩屋に戻ってきた二人の海女に一夜の宿を借り、僧が磯辺の松を弔っていた話をすると、二人は涙を流します。不審に思って僧が理由を尋ねると、二人は自分たちこそ松風・村雨だと名乗り、昔語りを始めます。そして行平の形見の烏帽子狩衣を身につけた松風は狂おしく舞い、行平の名を呼び松に寄り添うのです。妄執の罪に沈む姉妹は僧に弔いを願い、夜明けと共に姿を消します。後には松風の音が残るばかりでした。

 

演目③ 千切木(狂言

【あらすじ】
日頃から皆の嫌われ者である太郎。この度、連歌の会が催されることになりましたが、当屋(今回の催しの幹事)は「あいつは呼びに行くでないぞ」と言いつけます。立衆と呼ばれる連歌仲間たちも心はひとつ。太郎だけは途中で誘い合わせずに当屋の家へやってきます。さて、楽しい連歌の会。早速、皆で歌を考えているところに、どこから嗅ぎつけてきたか太郎が乱入。他の者たちは、荒波を立てまいと無視を決め込みます。相手にされないからと言ってか、そもそもの性格なのか、太郎の悪癖がエスカレート。飾ってある花を貶したり、掛け軸を見ては「ゆがんでる」と言い、硯、文台と目に付くものは全てケチをつけるような有様。いよいよ腹に据えかねた一同は、皆で示し合わせて太郎を打ち据えます。つまり踏んだり蹴ったり。目を回して倒れているところへ、現れる妻。夫が恥を掻かされていると聞きつけ駆けつけたのでした。その姿を見れば、手には太刀と棒(千切木)を持っています。「恥なんて掻かされてない」と強がりを言う太郎の袖を掴み、「この汚れは何?!」と尋ねる妻。太郎「身共には定まった紋がないので、皆が付けてくれた」と見え透いた言い訳。夫が草履で足蹴にされるとは情けないし口惜しい。妻「仕返しをするのよ!男が踏みつけられるなんて一生の恥。死ぬ思いで討ち果たしてきなさい」と言えば、太郎「死んでは元も子もない。身共の名代として行って来てくれ」とさらに情けない始末。それならば私も一緒に行く、というので夫婦揃って報復に出かけるのです。一番。いざ当屋の家に付き、名前を呼ぶと「留守!」。二番目も三番目の家に行っても「留守」。留守と聞いては威勢がよくなった太郎。散々棒を振り回し、声を張り上げて強がりを言います。それを喜んで見ている妻。最後は謡でしめて、夫婦仲良く家路に着くところで終わります。

 

演目④ 石橋(しゃっきょう) 〜石橋は叩いても渡れない〜
作者不明
前シテ・・・童子(もしくは老人)
後シテ・・・獅子
ワキ・・・寂昭法師
アイ・・・仙人

【あらすじ】
唐に渡った寂昭法師が、文殊菩薩が住むという清涼山(しんりょうせん)にやってきて石橋を渡ろうとすると、ひとりの童子に止められます。この橋の幅は一尺もなく、長さは三尺、谷の深さは千丈あまりで人間が渡ることなどできはしないと教える童子は、石橋の謂れなどを語り、橋の向こうは文殊の浄土であるから奇瑞(きずい)を待つようにと告げて姿を消します。やがて文殊菩薩に仕える霊獣の獅子が現れ、紅白の牡丹の花に戯れながら舞い遊び、御代を祝福して舞い納めます。

 

<まとめ>
本来、演能は五番立てといって5曲以上の演目で構成されることが常でした。しかし昨今は五番立てで上演されることの方が稀になっています。この五番立てには規則性があって、一番目物は脇能ともいわれ、神が登場して泰平を寿ぐ舞を舞ったりします。今回の演目でいうと「高砂」がこれにあたります。二番目物は修羅物ともいわれ、平家物語に題材をとったものが多く、武者の幽霊が出てきて生前の勇壮な戦いぶりを見せた後に修羅道に堕ち、修羅の責め苦と闘う能で、織田信長がこよなく愛したことでも有名な「敦盛」などが一般的です。三番目は女物で鬘物(かずらもの)とも呼ばれ、「伊勢物語」や「源氏物語」に題材をとった女性を主人公としたものが多く、いわゆる幽玄の極致といわれる能です。今回の演目だと「松風」がこれに該当するでしょう。四番目物は現実の人間の世界を描くので現実物ともいわれ、他とは雰囲気の異なる、ストーリーの面白さに重きを置くものが一般的で「鉢木」などが有名です。五番目物は切能といわれ、鬼や天狗が出る活劇物。今回の「石橋」は入門書などにも必ずといっていいほど紹介される定番の演目です。

 

よく言われることですが、能は省略を美とする演劇です。舞は三十にも満たない基本型を組み合わせ単純化された動きですべてを表現します。極限にまで無駄を削ぎ落した能ならではの所作の美しさ、様式美をぜひ肌で感じて、ご堪能いただければ何よりです。