レンズの詩学

アート批評、戦略論、雑感など

非・論理思考のサバイバル処世術

こうすれば成功するみたいな。チープで最大公約的に自己啓発を促したいワケじゃねえから、なんとなく流入しちまったって人たちはそのまま直帰していただいた方がいいかもな。ここに書いてあること、どう解釈するかはあんた次第だからさ。

 

「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?」ていう新刊の書評記事を目にして大いに共感させられた。ここ10年くらいのスパンの中で、俺自身がビジネス社会で感じてたことだった。その書評による結論は、これからのビジネスマンには「美意識」「アート」「デザイン」が必要なんだってことらしい。 

 

数年前に幾人かの知人が同時多発的に民間の経営大学院に通いだした。いわゆる「MBA」ってやつ。ITバブルの凋落も一段落して、世間的には「仕組み」なるワードが流行り、ある種のストックビジネスが盛んに取り沙汰されたようなときでさ。ちょうど新卒~新人の時期にMBAホルダーの若手経営者たちが脚光を浴びた世代だから、ロジカルシンキングや課題解決能力、ベイズ推定なんてゆースキルが神格化されたりもして。修士号もってない人間からすると妙にコンプレックスあったりとかしてさ、ムリないんだけど。俺自身も当時勤めてたシンクタンクで「うちで出世したいならMBA取れ」なんてこと平気で言われたりしてたし。でも正直。これからの時代、そんなのは全然要らねえってこと個人的に思ってた。

 

そもそも既存の「経営学」ってゆー枠組み自体が廃れてくんだろうなってこと考えてた。なぜなら主流になってる経営学の多くは「管理」という基本思想にもとづいてアカデミズムを形成してることが大きな理由。でもIT技術の進歩によって既存のビジネスモデル自体が大きく崩れようとしてる中、ビジネスをマネージしてく能力よりもクリエイトしてく能力の方が重要なんじゃなかろうか。そーゆーことを肌で感じてた。

 

実際のところ、高度経済成長で肥大化した企業体をいかにコントロールし維持してくか、効率化してくかってのがバブル崩壊後の日本経済の大きなテーマであり、企業人の命題だったワケだ。ところが時とともに環境も変わり、今や超優良とされてきた神話的な大企業でさえ倒産に瀕する時代になった。今は既存のしがらみや慣習から脱却し、ビジネスモデルを再構築しなければならない時代になったのだ。なんとなしに漂着して足を踏み入れた「ミレニアム」という名の大陸は、今まで考えられなかったようなビジネス環境や収益構造、商習慣という魑魅魍魎が跋扈する未踏の大地が拡がってたってことだわな。

 

MBAの思考様式として日本のビジネスシーンにも好意的に受け入れられた「ロジカルシンキング」ってのはつまるところが断片的な既成事実を根拠に演繹的に論理を組み立てろというものだが、これだけ不確実性に満ち溢れ、物事が非対称なビジネス環境において根拠とすべき既成事実がいったい如何程あるというのだろう。むしろまったく無の状態をスタートにして自由な発想で物事を捉えていった方が遥かに有意なことではなかろうか。それこそが「ロジカルシンキング」ならぬ「クリエイティブシンキング」だ。今もとめられてるのは、そーゆーことなんじゃねえのかな。

 

さて、それでは論理的思考では最適解が得られないので自由な発想で述べよ。なんてこと言われて、いきなり自由な発想ができるだろうか。論理的に凝り固まった頭からはなかなか柔軟な思考はできないもんなの。「論理的思考」ってのは思考様式だけれども、一種の宗教思想みたいなもんでさ。論理的思考にとらわれてしまった人は論理的でないものを回避するようになる。同じような類の本ばっか読んでる、みたいな。すべてが理路整然として明瞭な世界。そーゆーのしか受け入れられない。ところがだ。今言ったこと、つまり。すべてが理路整然として明瞭な世界。これって現実とは真逆な世界観であることがご理解いただけると思うんだけど。この世界の住人は突如として非連続的なことが生じると思考が停止してしまう。大学院なんかの教育機関も、いってしまえば「MBA」なる知識産業の害悪のような規格品を量産しまくってるだけじゃねえのかって問題提起もしたくなるってもんよ。

 

それではそんな論理的思考とは対極の、「美意識」「アート」「デザイン」的な思考法。ここでは理路とか明瞭性を飛び越えた柔軟な思考という意味で「アブストラクト(抽象)思考」と名付けよう。このアブストラクト思考を実践するために必要なこととはなんだろか。論理的思考が既成の事実を必要としたように。その答えが「多様性」にあると思うんだわ。あらゆることを内包した懐の深さ、包括的な経験と知恵。ここまで言ってしまうと全知全能なのではないかという叱責を受けそうだが、実はカンタンなことで。多様性というのは個人的体験と結びつきやすい。つまり一個人が数々の体験をとおして得た知見の集積によって多様性は担保される。早い話がいろんなこと経験しておけよってことだな。

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それはたとえば実体験によらず、擬似的な体験でもいいワケでさ。他人の足跡をたどるという意味では読書でも十分に目的は果たされる。実体験だけではなく他人の体験までいかに取り込むかというのもひとつの多様性ってわけ。そうして自分の枠組みだけではなく他人の思考様式や経験に補完してもらうことで高度にカスタマイズされた知性的データベースが出来上がる。この様々な角度によって編まれたデータベースを相互に参照することではじめて自由で柔軟な「抽象思考」が可能になる。

 

結局のところ「アート」ってのも、いかに未知の事象を不可視なコード(符牒)を媒介にして自分の物語の中に読み取るかってゆーことだから、そういう思考で組み上げられた「美意識」や「デザイン」っていうのは限りなく抽象的なんだわ。その上で抽象度を段階的に引き上げることができれば、自分なりのフィクションによって世の中の動きや流れを見通す「ストーリー思考」や「シミュレーション思考」に昇華することができる。

 

この辺の話もおいおい書いてくわ。Adiós, amigo!